真崎です

沖縄にいます

踊って踊って会社をやめた

 

関西でそこそこ有名な私大に通い、学生向けのセミナー運営やら教育NPOの活動やらで周りに頼られて尊敬されて意識ばかりが高くなり、「私はどんな会社に入っても大活躍する人財になれる」と確信しながら就活に臨み、某社社長にスカウトされる形で就活を終える。

 

そんな大学生活5年間を経てムクムク肥大化した自尊心は、新卒入社した会社を2ヶ月でクビになった瞬間破裂した。

 

 

その会社は、もともと社長がひとりで経営していた小さな教育企業だった。社長と私、ふたりで力を合わせてがんばろう、思ったことはなんでも言い合おうと誓った。そして入社後「社長の教育は正しさの押しつけだと思ってしまいます」と思ったことを伝えたら衝突。わたしは仕事が手につかなくなり、社長との仲もどんどん気まずくなり、入社から2ヶ月後、Facebookメッセンジャーで解雇通知をもらった。

 

”会社になんの利益も残さないお荷物”

”給料泥棒”

 

そんな言葉をSNSに書かれたような気もするが、当時はショックと怒りと悲しみで狂っていたのでよく覚えていない。

 

 

1ヶ月の引きこもり期間と3週間の転職活動を経て、クビから2ヵ月後に無事入社した会社は、心を病んで2ヶ月後に辞めた。

 

体育会系の不登校支援団体に入るも、入社1ヵ月後に犯した大きなミスをきっかけに、私の社内評価は最悪になった。

 

”傲慢で自信過剰で向上心も気遣いもない”

”頭の回転も遅いしマナーもなっていない”

”今のあなたは社内の最底辺”

”自分の悪い点を認めて変わる努力をしなければ、一生あなたはこのまま”

 

日々そう突きつけられて、自分は最悪なんだ、変わらないとダメなんだ、そう焦って必死に勉強やトレーニングを重ねた。するとなぜか勤務中に涙が出るようになり、窓を見ると飛び降りたくなり、トラックを見ると轢かれたくなった。

変わるための努力を身体が拒否した。変わらなきゃダメなのに、変わらなきゃここにいる価値はないのに、なにも変われなかった。

 

「変われないから辞めさせてください」と上司に泣いて伝えた。「君はクライアントを放置して逃げるんだからね」と言われた。最終出社日、上司に挨拶をして回ったが目を合わせてもらえなかった。

 

 

「新卒後3年以内に会社を辞めたら、どこにも転職できない」

そんな脅しが耳ダコだった当時に、私は半年で2社を、しかも1社はクビで辞めた。

 

もう、この社会に私の居場所はないのでは??

 

こわくなって、咄嗟にパソコンで「経歴 詐称 方法」とググった。1番目に出たのはYahoo!知恵袋で、「経歴詐称はいけません」がベストアンサーだった。 

 

 

 

退職してから、すぐに転職活動をした。

 

第一志望は、個人塾を運営する教育企業だった。面接に行くと、履歴書を見た社長が「この経歴じゃなかなか転職は難しいかもね」と言った。絶望した。

 

「今まで会社で経験したこと、言われてきたことが、キミにとって大きな傷になっているね。自信を失くしているのがよく分かる」

 

私は、傷ついて自信を失っているらしかった。

半年前まであんなに自信のカタマリだったのに、自信というヤツは随分カンタンに消えてしまうんだなぁと思った。

 

面接を終えてから2時間後、友人のもとで倒れていたら電話がかかってきた。先ほどお話した社長からで、「採用することにしたから」と言われた。嬉しくて叫んだ。無事に転職先が決まった。

 

 

この会社がダメなら、もう私の人生は終わりだ。

 

そう思い、文字通り決死の覚悟で入社した。

2013年、11月のことだった。

 

 

****

 

 

入社から、1年半。

やっぱりわたしはダメ人間だった。

 

この会社では、自分なりにやりがいを見つけて働けていた。

上司の考え方にも共感でき、同僚も優しく理解があり、その中であらゆる業務を任せてもらっていた。1から企画した大きなイベントが成功して、後日社長に「よくやったね」と褒められた時には、この上なく誇らしい気持ちになった。

 

でも、仕事の8割は空回っていた。

授業準備に教室管理に事務作業、うまく処理し切れない多様な業務。受験のプレッシャー、成果が出ないからと担当生徒の親御さんからかかってくる退塾連絡、苦手すぎて胃痛のする営業、保護者からの子育て相談にも的確な言葉を返せない。多発するケアレスミス。そのたびに届く上司からの叱責電話やメール。読むのが怖くて開封ボタンを押すのに1時間かかることもあった。

 

24時間、仕事のことが頭から離れなかった。

翌日のことを考えると気持ちが鬱々とした。家でも会社のブログを書かなきゃいけないのに、文章を書くことだけが好きで武器だったのに、なにも書けないまま2時間涙を流して固まり続けたこともあった。

 

 

1年半の間に、何度も何度も「もうムリだ」と思った。社長に「すみません、もう辞めたいです」と伝えたこともあった。

 

「本当に辞めたいの?」

社長はこう聞いてくれた。

 

「でも、正社員というカードを失って、この社会で生きていく自信がありません」

私の返答は、いつだって自信なさげでクズだった。

 

会社に属する以外の生き方を、私は知らなかった。

知ったところで、自分の力で生きていける自信なんて前職と前々職の会社に置いてきていた。どんなに辛くても、仕事中に涙が出ようとも、社会で生きていくために、私はこの会社を辞めるわけにはいかなかった。

 

社長や同僚の配慮のもと、わたしは会社に、正社員の肩書に、そこで得られる収入にすがり続けた。

 

 

 

日々の業務をなんとかこなし、横浜駅から電車にのり、東急東横線で自宅のある池袋に向かう。電車の窓にうつるわたしの顔は、たぶん、けっこう死んでいた。

 

 

池袋駅に到着する。

 

ここから自宅までの徒歩15分が、日々の中で1番、わたしの心が躍る時間だった。

 

東口を出てから、明治通り沿いをずっと左に進む。iPodの音量をグンと上げ、PerfumeAKB48RADWIMPSきゃりーぱみゅぱみゅなど、アップテンポな音楽を流しながら、鼻歌にしては大きすぎる声量で歌い、ステップを踏んで歩く。

 

下手くそだけど、踊ることが大好きだった。

 

音楽を聴けば身体が動き出すのは、今も昔も、自信があってもなくても、ずっと変わらない私のクセだった。

音楽を聴いて踊っているときだけは、辛さも苦しさも全部忘れた。

 

この帰宅時間がとても愛しく、家につくのがもったいなくて遠回りをする。薄暗い風俗街を、変な目で見られながらウキウキと踊って歩いた。

 

そして、家についたらゴールデンタイムは終了。

シェアハウスの同居人たちと軽くダべり、ご飯を食べ、お風呂に入り、寝て、朝がきて、「また朝が来た」と落ち込みながら仕事に向かう。

 

それが、ビビりな私の手放せない日常だった。

 

 

*******

 

 

2015年3月某日。

 

業務を終えて、死んだ顔で東急東横線に乗って、池袋駅から音楽を聴いてウキウキ歩いて、家について、ゴールデンタイムは終了、のはずだった。

 

 

家には、シェアハウスの同居人であり、ダンサーのかなえちゃんがいた。かなえちゃんと並んでソファに座り、ボーっとテレビを眺める。

 

お互いダンスが好きで、2人揃えばちょくちょくダンスの話をする。この日は、私が映画『ハイスクールミュージカル』のダンスが好きだという話をした。

 

 

 

かなえちゃんと一緒に動画を見た。サビの踊りを見て、思わず体がウズウズと動き出す。

 

「かなえちゃん、これフリ覚えて教えてよ」

そんなムチャぶりをした。

 

「いいよ、覚えるから10分だけ待って」

マジか。10分後にレッスンが決まった。

 

 

10分後、サビのフリを完璧にマスターしたかなえちゃんが、リビングでマンツーマンレッスンをしてくれた。

 

「ウィ、オールインディス、で腕を3回曲げて、最後に手拍子パンッ!」

「腕を3回曲げてって、こう?」

「ちょっと違う、それじゃゴリラ」

「ウホッ!(パンッ)」

 

ふざけてゲラゲラ笑いながら、ひとつずつフリを身体に落としていく。気付けば住人たちも1人また1人と帰宅して、私たちのレッスンを眺めていた。

 

3月のまだ肌寒い時期。かなえちゃんとわたしは気付けば汗びっしょりで、半袖で踊り続けていた。

 

フリ落としを始めてから2時間。こんなに早く時間が経つ感覚は久しぶりだった。

 

「ひと通りできた? じゃあ音楽流してやろか」

「え、は、まだムリ、ムリムリムリ」

「下手でもいいから! 合わせてるうちにできる!」

「スパルタ!」

 

そこからは、延々と、何度も何度も音楽に合わせて踊り続けた。2人の姿が窓ガラスにうつる。かなえちゃんの踊る姿はかっこよく、わたしのソレは無様を極めた。

 

「わたしがかっこよく踊れるまでやる」

「真崎、それいつ終わんねん」

同居人の男が笑う。

 

音楽がかかる。踊る。踊る。踊る。

また音楽をかける。踊る。踊る。踊る。

 

窓ガラスにうつる自分の姿を見る。無様。

 

 

顔を見る。

めちゃくちゃ、楽しそうに笑っている。

 

 

楽しくて楽しくて、本当に楽しくて、日付が変わるまで何時間もずっと踊り続けた。

かなえちゃんもしつこく付き合ってくれて、終わりと同時に2人で笑いながらぐったり床に倒れ込んだ。

 

真っ赤な顔の私を見て、同居人の男が嬉しそうに言う。

「真崎の楽しそうな顔、めっちゃ久々に見たわ」

 

そういえば、彼にはここ最近、悩み相談で暗い顔を見せ続けていた。こんなに楽しい時間も、こんなに笑った顔も、随分久しぶりだった。

 

 

「わたし、分かったかも」

そう口から漏れた。みんな「?」という顔をした。

 

踊って分かった。 

わたしの身体は、ちゃんと自分の「好き」「楽しい」を知っていた。

 

なにをすれば自分の心が喜ぶのか、身体はいつも覚えていてくれた。わたしの魂は、たぶんもっと純粋に喜びたがっていた。

 

 

”給料泥棒”

”傲慢で自信過剰”

”変わる努力をしなければ一生このまま”

 

”自分は最悪なんだ”

”こんな自分は、この社会で生きていけないんだ”

”会社に属さない自分に居場所なんてないんだ”

 

そんな言葉と臆病な理性で、ずっと自分を殺してきたんだと思った。

 

 

不安払拭とお金のために無理して働いても、どうせ精神的にじわじわ死ぬ未来は見えていた。

 

だったら。

好きなことをしてのたれ死ぬほうが、きっと私にはいい人生だ。

 

 

その晩、わたしは会社を辞めることに決めた。

 

 

*****

 

 

翌日、社長と話す時間をもらった。

 

「1度思いっきり好きなことをやって生きていってみたいので、会社を辞めたいです」と伝えた。

 

「好きなことって?」

「踊ることと、書くことです」

 

神妙な顔をしていた社長が、ハハッと笑った。

 

「その理由ならいいよ、応援する。若いうちに思いっきりやりな。あと変な男には騙されないように」と、笑いながら社長は言ってくれた。ありがたくて泣いた。

 

そうして、「ここを辞めたら死ぬ」と思っていた会社を辞めた。

 

 

その後、実績のないままライターを名乗って仕事を始め、がむしゃらに書いて発信する仕事をしていたら「高知でよさこいを踊りませんか?」という仕事依頼がきた。それがきっかけで真剣によさこいを始めた。

 

仕事を辞めて3年経った今、私は、書いて、踊って、生きている。

ブランクは長かったが、最近はわりと人生が楽しい。

 

#わたしの転機

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追記:

上記の「りっすんブログコンテスト」に応募したこちらの記事、ありがたいことに優秀賞をいただきました。

大好きなエッセイストの紫原さんをはじめ、作家の能町みね子さん、ジャーナリストの望月優大さんから、光栄すぎるコメントもいただけて家宝級メモリアルです。

 

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