「……どうすっぺか。」
PCを閉じた瞬間思わず口から漏れた。
池袋のスタバ。
3階は階下よりもなんだか閑静。
私の口から漏れたノイズにもれなく皆さんお顔を上げる。
「え?」て顔してらっしゃる。
普段からふざけて「方言っぽいことば」を使ってた。
そしたらここで飛び出た。お呼びじゃない。
15時頃に入店して、16時頃に以下の記事を書き終えた。
長い記事だったけど、自分の率直な想いをつづる文章は驚くくらいスムーズに指がカタカタ動く。文章が完成してから10分~20分は推敲タイムで、私の大好物である「行間」と「句読点」の編集をする。行間を1つ入れるか入れないかだけで読者側に与える印象がまるで変わる。
で、終えて、「どうすっぺか」に陥る。
私の信頼するふたりのネットワーカーに速攻で連絡した。
ふたりとも直近タイムリーでネットワークビジネスについて話していた人物だったので、この記事を読むことで「自分のことなのではないか」と不快な気持ちになったらどうしようと思った末の行動。
ふたりのうち一人でも「なんだこれは」となったら、消そうと思った。
記事のURLを張り付けたものを送ったら、ひとりからLINEが帰ってきた。
「なるほど、勉強になります!」
完全に感覚だけど、良くない予感がした。
そんなつもりはないけど、傷つけたかもしれない。
「(相手の名前)の批判とかじゃないよ」と送った。
そしたら、「なんでも大丈夫^^」ときた。
もうひとりの女の子からは
「ブログ愛読します!!!!!♡♡」ときた。
SNSへの投稿、投稿する文面とURLを張り付けたものを作成して【投稿する】のボタンを押すのに、3時間かかった。
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大学4年生の時から公に向けてブログを発信することを続けてきたけど、昨日の記事はそこからの4年間で一番大きな反響をいただいた。
アメブロの時はせいぜい1記事書いて600~700PVくらい。
それが、昨日の記事には本日すでに4000PV近く。
今の時点で600近いfacebookいいねのシェアをもらった。
PVを気にすると自分らしい文章が書けなくなるというのはどうやら本当らしく、他者に迎合しようと綴った文章は、自分でも納得感が薄く、重ねて周りの反応もそれほどない。なんというか、誰も得しない。
ネットワーカーの友達たちの目を激しく気にしつつも、昨日の記事は私が書きたくて表現したくて仕方なかったこと。
自分、時には他人も同様に抱える「言葉にできない感情」が、言葉になってふっとおりてくる時がある。
それがおりてきた時、私の中の「書きたい欲求」が爆発する。
その欲求に従って書いた文章を、多くの人に読んでほしい、でも怖い、という矛盾した気持ちを抱えながら【投稿する】を押した。
そしたら、思わぬ反響がきた。
まじか。
まじか。(2回目)
コメントやシェア、PV数がどんどんついていくのを見ながら
なんだかとても不思議な気持ちになった。
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「とても共感しました。」
「そう。これ。」
「言葉にしてくれてありがとう。」
とっても嬉しい。
昨日、これでもかとそんな感想をもらった。
皆さんそうだったのですね。
率直に言えば、私はその人たちのために書いたわけではない。
私が感じたことを猛烈に表現したくなり、私のために言葉を綴った。
自分が好きに文章を書く上での喜びでもある。
そんな「自分の言葉」に、いつの間にか他者が共感してくれていること。
私の文章は感情重視で、きっと分かりにくい人にはとても分かりにくい。
「読みずらい」なんて批判はもはや専売特許。
だからこそ、「かまうもんかいエイヤッ」と書きたいことを発信したものに共感してくれる人がいることは、「私という存在そのものを受け入れてもらえたレベル」の嬉しさを感じることもある。
逆に言えば、私の文章の武器は一部他者への「強い共感」なんだろうと思う。
「不思議な気持ちになる」と書いた。
つまりは、その「嬉しい」だけで気持ちが完結しないということ。
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「真崎さん、この記事、オレのことっすよね?」
そんなメールが突然届いた。
大学5年生の夏。
その日の朝に投稿した記事には「facebookの「いいねよろしくお願いします!」という投稿について」みたいなことを書いた。
当時の仲間にも言われるけど、大学時代は今よりもずっと視野が狭くてギンギンに尖っている系女子大生だった。
当時のブログ記事見ると
ンマー穏やかでない
上記のような「いいねよろしゅ」な投稿に、なぜか個人的にとっても違和感や不快感を感じていて「それどうなの?」みたいな記事を書いた。
そしたら、後輩の男の子からそのメールがきた。
彼は怒っていた。
「あんな風にブログで否定する必要ないじゃないか」
「失望した」
「返事はもういらないです」
彼は、怒っていた。
そして、たぶん、傷ついていた。
自分で言うのもなんだけど、私のことをものすごく信頼して慕ってくれていた後輩だったから。
その文面からは、怒りの言葉の裏に、悲しみが滲んでいたように感じた。
その記事は、彼のことを書いていた。
完全図星。
記事を書いている時は完全に感情先行。
まさかこんなことになるなんて、と、冷静になってから激しく後悔した。
感情に身を任せた言動は
しばしば人間関係を破壊する。
感情人間の私はそれを実生活の中で痛いほど学んできたつもりだった。
選択理論心理学や人間関係のセミナーなどを受けながら、その摩擦を起こさない関係構築に関して、知識を入れて理解を深めているつもりだった。
けど
私の大好きな「書く」という手段において
喜怒哀楽いかなる感情であろうと、「そのまま表現したい」という欲求を止めることがなかなかできなかった。
要は「感情に身を任せた」文章を書いた。
率直な私の感情を表した文章には
ありがたいことに「共感しました」が多く寄せられる。
そして、その一方で
そんな私の文章で傷つけてきた人が
たぶん、わりといる。
文章を書くときには、特定の誰かを想いながら書くことがよくある。
それが、良い内容だろうと「アンチいいねよろしゅ」な内容だろうと。
そして、気付く。
その文章は、面白いくらいに、その「特定の誰か」に届く。
泣きながら「これ私のことだよね。ありがとう。」と言われたこともある。
そして、「これオレっすよね。失望しました。」も。
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言葉は、私の「武器」と思っている。
誰もが持っているものだけど、言葉を紡ぐことが大好きで、もっともっといろんな表現を身につけて手なづけたいと思っている。
武器だから
人を癒したり、時に人を救ったりすることに使うことが、きっとできる。
武器だから
人を傷つけたり、時に人を殺すことに使うことだって、きっとできる。
言葉がまっすぐで率直で正直で感情豊かであればあるほど
私の武器の刃は、たぶん鋭くなる。
だから、ネットワークビジネスの話を書くことは怖かった。
随分過去の話になるとはいえ、「特定の誰か」が何人も登場したから。
その人達にこの記事が届いたのか、届いたのであればどう伝わったのかは、不明。
私の文章が誰かを傷つけるかどうかは、究極コントロール外。
可能性を0にするのは私が書かないことなんだろうけど、それは無理。
書いて打つための指や手や腕が消えても表現し続けたい。
だから、肝に銘じておくしかない。
私の持つ「武器」が、激しく諸刃の剣になること。
って、こんな感じで2日連続真面目なこと書くと私の体内の関西人が絶賛欲求不満。
「柄ちゃう、柄ちゃうで」て、すんごいうっさい。