「じゃあこれを受けて提出して下さいね」
出てきたのは、仕事で使うらしい心理テスト。
「エゴグラム」というものらしい。
(参考:エゴグラムによる性格診断 ←簡易診断できます)
その前に面接を受けてその場で合格と最終面接の案内を言い渡された私は気持ちものりのりにそのテストを受ける。
「好奇心が強い」
とても強い
「何事も事実に基づいて判断する」
それレベル高い
「つらい時には我慢する」
しない
「相手の話に耳を傾け共感する方である」
してる
「権利を主張する前に義務を果たす」
耳が痛い
・
・
・
そんな感じで、各項目に直観で即答しながらうきうきとそのテストの記入を進めてその日は帰宅。
約1週間後に最終面接、そして内定。
1社目をクビになって2か月後の出来事。
それが、2か月で半ノイローゼになって辞めた、2社目の会社の話。
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「エゴグラム」
というテストは、先ほどのような質問に答えることで、その人の持つ"自我"を5つの項目に沿って数値・グラフ化したものである。とても簡単に言えば性格診断。
5つの項目というのは
[CP] | CriticalParent:批判的P |
物事を観念的に捉える部分です。つまり人や周囲のことを自分の考えや 価値観の枠にはめて物事や人をみる部分です。それは偏見や押し付け的 な部分として現れ、意志の強さでもあります。 |
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<特徴>頑固/頼りになる/強さ/厳しい/けじめ/責任感が強い | |
・・ | |
[NP] | Nurturing Parent:保護的P |
物事を観念的に捉えるというところはCP同じですが、 人や周囲にやさしいところです。 |
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<特徴>やさしい/人の面倒をよく見る/心づかい/独善的/保護的 | |
・・ | |
[A] | Adult:アダルト(成人の私) |
物事を冷静、客観的、合理的に判断する部分。 人間コンピューターとも呼ばれ、論理的思考であり、自分の考え方を持って いるわけではない。 |
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<特徴>クール/論理的/感情を表に出さない/打算的/客観性 | |
・・ | |
[FC] | Free Child:自然のC |
感情的で自分の好き嫌いで物事を決めたりする。子どものようなところ 自分の持つエネルギーが外に向かっている。 |
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<特徴>わがまま/屁理屈/夢やロマンを持つ/集中力 エネルギッシュ/独創的/積極的/明るい |
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・・ | |
[AC] | Adapted Child:順応のC |
自分がどうしたいというより周囲を優先にしてしまう。 繊細で感受性の高い。自分の持つエネルギーは内面に向かう。 |
|
<特徴>ガマン/周囲に合わす/抑圧的/優柔不断/消極的/地道 |
(参考:2、エゴグラムの理解(5つの自我状態))
こんな感じ。
この5つをCP~ADの上記順番で数値化してグラフに記入、その点を繋ぐと折れ線グラフが出現する。その折れ線グラフの形からその人の自我の特性を読み解くというもの。
無事内定が決まり、まずは研修。
その研修の時に私が最初に受けたエゴグラムの結果を聞いた。
(以下、結果の参照:http://www.egogram-f.jp/seikaku/aisyou/patan.htm)
「明朗楽観タイプ」
・先に明るい見通しがあろうとなかろうと、いつもおおらかで、楽しい雰囲気を醸し出すことのできる、精神的にはたいへん幸せなタイプです。
・思いやりがあって世話好き、好奇心が旺盛で表現量豊かなのは大変結構なのですが、ルーズで気ままなところと、生活全般に統一された生き方というものが見られないのが最大の欠点です。現実感覚にかなりうといところのあるタイプといえます。
・ 人に利用されやすく、調子に乗りやすいタイプなので、知らないうちに八方ふさがりにならなぬようご注意。
なにこれー。
真崎ー。
(と、思った。当時は。)
これをクライアントに受けてもらい、その結果やその人との会話と通して、その人がその環境ひいてはいかなる環境でも「生きやすくなる」ための支援をする。
そこでの言葉を使うなら「社会適応する」ためのお手伝い。
私の場合はそれを「学校環境に適応できない子ども」に対して行う。
そんな仕事を、360度どの角度から見てもまぎれもなく不適応、自他共に認める絶賛社会不適合者の真崎が、行う。
この時はまだお気付きじゃなかった私。
もうすっごい社会適応者だと思ってた私。
「すごいですねこれ!すっごい当たってます!!」
そうやって興奮する私に上司が「この形は、おせっかいでもあるけど思いやりもあって、それでいて前向きな性格だから、この仕事に合っているよ」と言って下さった。
ついにきた。
私の輝く舞台。(恍惚)
2か月後
死んだような顔で退職届を書いている私。
なんということでしょう。
入社当初と終了間際の人相が劇的ビフォーアフター。
入社1か月後にやらかした。
その日に空前絶後の大叱責を受け、まったく喜ばしくない形で私の名前が全社に轟き、以後私に対する周囲からの見方とかけられる言葉がまったく変わった。
要約すると私は「傲慢で過信で礼儀知らずで向上心がなくて気遣いが出来なくて頭の回転が遅くて報連相がなっていなくてこの出来事は野球で言うとレギュラーから2軍落ちした状態で現在あなたは会社の最底辺」みたいなお話を連日聞きまして。
皮肉なのか褒め言葉なのか分かりませんが「支援をするあなたの方が不登校生のようですね。子どもの気持ちがよく分かるのでは。」という有難いお言葉も頂戴致しまして。
最終的には「今までの成功体験とすべての過信を捨て自分の悪いところをすべて認めた上でそれらを直し自分を変える努力をする」という改造提案を上司@リフォームの匠からいただきました。
当時の自分が残していた文章が、もう、病みきってる。
今まで積み上げた自信がぼっきりと折れて、上司や会社の言うことがきっと一番正しいんだ自分は人間として社会人として最悪で一刻も早く変わらないといけないんだと自分に言い聞かせて、でも心の奥でそれを受け入れられず、今の自分を捨てて変わるための行動ができない自分をこれでもかと責めていた。
朝自転車で駅に向かう時、本気で事故に遭いたかった。
駅にて、ホームから線路内への1歩を踏み出す勇気があればどれだけいいだろう、それすらできない自分はなんて臆病なんだろう、と思いながら、電車を待った。
かつてない強さで、死を想った。
で、辞めた。
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退職の決め手の1つになったのが、エゴグラム。
クライアントだけではなく関わる側も定期的に心理テストを受け、今の自分の状態や自我の変化を見つめる必要があるんだよ、ということで上司からエゴグラムを進められた。それが退職3日前。
2か月前に受けた時と同じ項目。
なのに、「これは同じ項目なのか?」と衝撃を受けた。
項目に対して選択する回答がまるで違う。
自己評価の変化は如実に結果に表れた。
「ハイパワータイプ(逆N型)」
他人を踏み台にして、のしあがあろうとするところがみえみえのタイプです。野望と欲望に燃えたぎるタイプで、目的達成のためには、かなりあくどいことでもやりかねない危険性をはらんえいます。しかしその性格が良いほうへ向いたときには、芸能、芸術、文筆活動などで、パワフルな力を発揮する可能性もまた決して少なくありません。冷淡さと頑固な気ままさをいくらかでも修正できれば、かなり有用な人材として活躍できる可能性の高いことも、決して 否定することのできないタイプです。
(今思えばむしろこの結果の方が最初より自分だなあと思う。前半の「他人を踏み台」「あくどいことやりかねない」はビビりなので無理だけど。)
NP(思いやりの自我)がガクンと下がり
AC(周囲への適応の自我)がわりと上がったN型になった。
「気遣いもできず他人を思いやる心の余裕もない自分本位な奴」
「周りの言うこと聞かなきゃ求められる人にならなきゃ私は最低最悪のダメな奴」
みたいな自我状態での項目チェック。結果がこうなるのは頷けた。
上司に見せた。
もう、「あちゃー」という顔をしていた。
「自我はこうだから悪いというわけじゃない、けど、変わらなきゃね。」
とのお言葉を頂戴した。
NP、他者への思いやりをもっと持とう。
FC、自由で子どもらしいのはいいけど満点は度が過ぎている。
AC、上がって良かったね周りを気にするようになれたんだ
この項目がこうなってこうなって、最終的にグラフの形がこうなるといいね。
辞めようと思った。
「そうなろうと思えませんでした」
と泣きながら伝えた記憶がある。
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上司が私にしてくれたのは、まさにこちら側がクライアントに対して行う面談。
エゴグラムの結果から相手の自我の特徴をつかみ、平たく言うとどの部分で「社会不適応をこじらせているのか」を見つけ、その部分の数値を「社会適応できる」ように調整する関わりを行う。
というと、がっつり私の負のフィルターがかかっている。
「その子の「生きづらさ」の根本にある価値観の変化を促し、今の環境、ひいてはいかなる環境でも「生きづらさ」を抱えることなく生きていけるようにする」という支援、というと印象が変わる。なんて素晴らしく意義のあるお仕事だったのでしょう。
エゴグラムは最初から私の興味を大きく惹きつけ、休みの日に地元の大きな図書館に訪れては「エゴグラム」や「交流分析」といった本を読み漁って楽しくたくさん勉強した。
「社会不適応」とされる人のエゴグラムの形には共通する特徴もあり、その形をどういう風に変えることができたら、その人の「適応力」が高まるのか、という書物はたくさんあった。
とても面白くて、子どもと関わる参考にしようと思った。
あの子は、こう変わったらいいんだ。
あの子に、こんな変化を促すためにこういう関わりをしよう。
上司のその関わりをされた時
率直に「いやだ」と思った。
こころの奥底で「変わりたくない」「なんで私が変わらなきゃいけないんだ」と叫んでいる小さな自分がいた。
その考え、その響きは、なんだか批判を生みそうなムードをはらんでる。
人間としてどうなの?
と聞こえてきそうで怖い。
でも、思ったんだから仕方ない。
私の中の価値観が大きく揺らいだ。
そもそも学校環境に適応できなきゃいけないんだろうか。
そもそも社会に適応できなきゃいけないんだろうか。
「学校環境や社会に適応する支援」ってなんだ。
そもそも「学校環境」ってなんだ。
そもそも「社会」ってなんだ。
そこに「適応する」ってどういう状態だ。
そこに「適応する」ことができたら幸せになれるのか。
「生きづらい」ってなんだ。
「生きやすい」ってなんだ。
「生きづらい人」が「生きやすい人」の世界に迎合しなきゃいけないのはなぜだ。
パニックに近かった。
適応することができるようになった先には、もしかしたらその人のより幸せな人生が待っているのかもしれない。
だけど、そこに対する価値が分からなくなった私には、「("社会"からこぼれた)人の("社会"に引き上げるという)支援をすること」は、もう無理だと思った。
そこに価値を感じるどなたかにお願いしたいと心底思った。
愛読している坂爪圭吾さんブログの、左記リンクから飛べる記事を読んだ。
あるイベントで著名人達と講演の舞台を共にした坂爪さんが、その著名人たちの講演を聞きながら激しく違和感を感じていたところ。
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≪「社会に通用する人間を育てるのが子育ての基本」という嘘≫
「正直に言って、未だにこんなことを檀上で偉そうに言う人がいることに驚愕した。私から見れば、年間三万人を超える自殺者がいて、100万人を超える鬱病患者がいる社会に適応できる人間を育てようとするのは最高に危険だと思っている。」
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余計かき乱された。
良い意味で。
「社会」に出てから「私はなんて駄目な奴なんだろう」と自分を責め続けた。
「社会」は私に「変化」と「社会適応」を求めた。
適応できない私には、この「社会」に居場所も存在意義もないと本気で思った。
「じゃあ変われ」と言われたら、いやだった。
「じゃあ消えろ」と言われたら、それもいやだった。
上手く適応なんかできないけれど
それでも自分らしく自分を生きたいと思った。
『「社会不適応者」は「社会適応者」にならなければいけないのか』
自分で立てたこの問いに関する答えは、正直よく分からない。
「社会」も「適応」も上手く定義できない私には難解だったかもしれない。
でも、私の中の私だけは
その問いに対して
はっきり「いやだ」と叫びました。
だから、「それが正しい」と思って人に関わるのを辞めようと思いました。