以前のブログにも書いたことがあるのだけど
2社目を2か月で自主退職するとなった時
私が最初にしたのは「経歴詐称の方法を探す」だった。
1社目は2か月で会社都合の退職
2社目は2か月で自己都合の退職
履歴書にその職歴を並べた時点で「こいつ2か月の女か」と思われて選考官に弾かれてしまうのではないのか
つまり今後わたしを採用してくれる会社などないのではないか
(飛躍)
つまり私は社会に居場所などなくなるのではないか
つまり私が存在している意義などなくなるのではないか
え、それは無理。
ということで、必死にインターネットで検索するも、Yahoo!知恵袋とグーグル先生から「経歴詐称はいけません」と説教されるハプニング。ごめんなさい。
そこから2週間ほど親の目をごまかし続ける暮らしを続けた後、以前からブログを拝見して勝手に共感していた横浜の教育関係の男性がブログで「社員募集」を実施しているのを見つけ、飛びつくように横浜へ飛んで選考してもらい、採用してもらえることになった。
捨てる神あれば拾う神あり
私はまた「社会」へ戻ることができた。
年末、私のfacebookフィードに流れてきた1つの記事。
【生活に最低限必要な10の荷物】というもの。
題名を見た瞬間に、読む気が失せた。
(ごめんなさい)
最近出回っている記事を見ると「~~~に必要な17のこと」とか「〇〇〇が知っておくべきたった20のこと」みたいに、題名の中にそういう類の数字を散らしているものが多すぎて、『読者の目を引くブログの書き方のスキル』みたいなものにそれが入っていたりして
そういう記事が大体おもんなくて
「「たった20」て多いわ」て思ったりして
「17て半端か」て思ったりして
この人の記事も「読者の目を引くために小手先のスキル使ってる例のアレやわはいはい」みたいな目で最初は見ていた。
ああもうほんと可愛くなれない。
しかし、この時からやたら頻繁にこの方のブログがfacebookフィードにシェアされることが増えてきて、それに伴い私も記事に目を通させてもらうことが多くなってきた。
読んでいるうちに、筆者の情報が掴めてくる。
名前は坂爪圭吾さん
年齢は29歳くらい
顔は濃いめ
「いばや」という会社をやっている
いばやを逆から読むと「やばい」
「ただやばいことをする」というコンセプトの会社
いま家に住んでない
家のない生活を実験中らしい
それをSNSで発信すると、宿や食料、物資などを提供してくれる方たちが続々と現れ、さらにそれを発信していると全国からどんどん「交通費出すから来てくれ」みたいな逆依頼が舞い込むように。
今は各地で講演なども行っている模様。
という感じ。
(間違ってたらごめんなさい、ブログ読んで下さい)
「社会」に出てからというもの、私の中で「社会不適合」というキーワードが自分から離れなくなっていたのだけど、記事を読む中で出てきた「年間3万人の自殺者が出る社会に適応できるよう育てるなんてとても危険」みたいな記載があり、なんというか、「この人味方だ」と子どものように思った。
その辺りから勝手に坂爪さんの紡ぐ言葉に共感を覚えるようになった。
私は、文章を書くことがとても好きで。
それに伴い「この人の文章好きだな」と思った人を好きになる性癖がある。
性癖じゃないか。癖。
坂爪さんの文章は、なんだかとても不思議だった。
その不思議さに取り憑かれたみたいに、ブログの1番最初までさかのぼって何度も何度も坂爪さんの言葉を読みまくった時があった。
「わが子は不登校でしたが、このコミュニティに参加したことで無事に正社員になることが出来ました」みたいな事例を出されると、不登校はバツで、正社員はマルで、結局同じレールの話じゃないか(何が個性や多様性だ)と感じました」
というつぶやきに、当時「不登校支援」という活動に従事していた私はおもいっきりドキッとしてしまい、ものすごい自己評価が起きた。
「不登校」や「支援」という言葉に違和感を感じてずっともやもやしていたけれども、ひとたび発信をするときに「不登校で中卒だけども今しっかり働いてる人がいる」「不登校から"ちゃんと"大学進学している人もいる」という言葉を使っていた自分がいた。
それは「だから不登校だからって今もこの先の未来も閉ざされているわけではなく、可能性も選択肢もたくさんあるんだ」ということを伝えたかった
のだと思うのだけど
なぜか、やっぱりとてもドキッとした。
「新卒の年に2社退社」
それは、私の中で「バツ」だった。
会社に入るためには「私はこういう者でこういう人生(というか学歴・職歴)を歩んできました」という履歴書を提出せねばならず、そこでこの黒歴史を記載しなければならない私は「社会的」に半分死んでいる。今入っている会社を辞めてしまったら、自分にこの先はない。
どこからそんな気持ちで「社会」に戻った。
無意識のうちに私の中にもきちんと「レール」が整備されており、子どもと関わる際にもどこかそのレールによるフィルターを介して彼らを見てしまっていたのではないかと思ってしまう。
たぶん、そんな「ドキッ」だった。
さっきの【誰かのためとか~】という記事は、私が最も影響を受けた記事であり、もしかしたらあの記事を読んでいなかったら今の自分の選択はなかったんじゃないかと思うくらいのものだった。
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「貧困に喘ぐこどもたちが無数にいる」とか「最終学歴が高卒の人間の3分の2は就職できない」とか「小学生でも塾に通わせないと進学できない」とか「今日いう日にはこれだけ費用がかかります」とか、とにかく子育てに関する家庭の不安を煽っては「そうならないための処方箋」を示そうとする人が多い。
あらゆる場面で「不安を煽りすぎだ」と思うことが本当に多い。
人間が行動の原動力に出来るのは「不安」か「希望」の二つしかない。現代社会は不安を煽り過ぎで、不安を原動力に日々を過ごすのはあまりにもつらい。「こうなりたくないから」じゃなくて「こうなりたい」という希望を軸に行動を起こさないと、いつまでたっても不安から逃れることは出来ない。