不登校関連の仕事をしていた時、不登校支援系の人のブログの発信を見たり話を聞いたりすることがちょくちょくあって、その中で自身が不登校経験者だったという人も少なくなかった。
その中で
「今はこうして支援者をしています。だけど自分も不登校を経験しています。だからあなたの気持ちが分かります。」
みたいな発信をしている人も少なくなかった。
私なら
この人に絶対支援されたくないと思った。
約2年前に書いた記事。
個人的に好きな自分の記事。
文字通り「「分かる」に対する違和感」について書いた。ここで言う「分かる」とは「ほぼ100%理解をしている」と私なりに定義づけておく。
この時の私の心情として『「分かる」なんて傲慢』というものがあった。
どんなに信頼関係がある者同士でも、血が繋がっていても、同じような経験をしていたとしても、それによって相手のことが「分かる」なんて思った瞬間に相手の姿が見えなくなってしまうと思っていた。
私がその心情を獲得した出来事が上の記事。
大学4年生の時に参加した学習支援、被差別地域の中学校で学力が著しく低くピアスたばこ「おいコラ真崎」な中3生3人の先生をした時のこと。
私の授業はひどいもので生徒たちから毎度大ブーイングを食らっており、メンタルを激しくすり減らしながら「なんで「I」の次に「am」が来ることを覚えられないんだ」と本気で疑問に思いながら指導案を練る日々。
私は中高「超優等生」だった。
学力に関して、中学で学年1位とったり高校で学年3位とったり、それでいて体育も大好きです系女子だから大体成績オール5とってたり、この当時の話すると大体2~3人がなぜか私に殺意抱き始めたり、そんな素敵優等生ぶり。
且つ共働きの両親のおかげで経済的に困ることのない生活を送っていた私は、中2から塾に通い始めて成績を急激に伸ばし、わりと名のある私立高校に推薦で入学した経緯があった。
「真崎の授業は「分かる子」向けで分かりにくい。」
そんなフィードバックを受け続け、試行錯誤して改善を重ね、生徒との距離も縮まってきてようやく授業が「授業」として成り立ち始めた。
そんな折、ひとりの女子生徒が私を無視するようになった。
どうしたのか?と腰をかがめて聞いたら、彼女は「そういうのがうっとーしいねん」とかつてない勢いで暴言を吐き捨てシャーペンを放り出した。
結局その場はその子に違うスタッフがついて授業を行い、そのスタッフが授業終了後私に伝えてくれた。
「真崎の教え方って、やっぱりなんか「勉強ができる人」の教え方で、その教え方自体があの子にとって苦しかったんじゃないのかな。
それに、あとの2人が解いていける問題を彼女は解けなかった。クラスの中で「置いて行かれている」という感覚があったのかもしれない。」
そのスタッフさん自身、過去に勉強についていけなかった経験から、その子の感じている"と思われる"「劣等感」や「苦しさ」が『なんとなく分かる』と言っていた。
私には、分からなった。
勉強ができない苦しさ。
経済的に塾へ行けない劣等感。
その夜仲間の家で、その日の出来事と情けなさと悔しさと悲しさと憤りといろんなものが混じって爆発的に大泣きしながら、私はこんなことを言っていたらしい。
「私も勉強ができなかったら良かった」
「私も家が裕福でなくて塾とか行けなかったら良かった」
「そしたら自分も、彼女の気持ちが「分かる」ようになるのに」
「そんな当時の自分と出逢えるなら渾身の力で殴り飛ばしたい」
そんな記載に対して「2年前とはいえさすが真崎」と2年後真崎が渾身の自画自賛。
同じ経験をしたら、その気持ちが「分かる」だと。
ふざけんな。
謝れ。(誰に)
2年前の私の「殴り飛ばしたい」の裏にある理由とは別物かもしれないけど、この「分かる」にはやはり私は憤りしか感じない。
「勉強が苦手だった」
「経済的に不自由だった」
誤解を恐れず言うなら、それって結局「経験をカテゴリ分けしたもの」でしかないと思っている。そのカテゴリにはきっとその人だけではなく不特定多数の他者がいる。
では「勉強が苦手だった」というカテゴリに属してる者はみんな同じ劣等感や苦しみを感じてきて、それをそのカテゴリ内で「分かる分かるよ君の気持ち」と共感・共有し合えるのか。
それは、絶対に違うと私は思う。
嫌いな言葉やけど、「絶対」違う。
極端な例を挙げれば「勉強が苦手だった」からこそ「因数分解やべえええええええええええええええ」と1つの問題が解けた時の感動を常人の50倍のテンションで味わい続けていた究極のポジティブ男子の存在を私は知っている。
とっても極端だけど、こういうことだと思っていて。
不登校に関してもそう。
「不登校」というラベルの先には、その不登校の人たち分のストーリーと気持ちと価値観があるわけで。
その理解なしに「同じ経験をしたから「分かる」」ということは、ただの思考停止でしかなくないか、と感じている。
相手の話や相談を聴きながら途中で「分かる」と自分の話にすり替える人が、私は苦手だ。
話をすり替えないにしても、「分かる」と思ってしまった瞬間に、相手の話はいつの間にかこころの中で自分の経験と思想に置き換わっていってしまう、そんな感覚を味わったことが何度もある。
そうなった瞬間、相手の話が聴けなくなる。
相手の姿が見えなくなる。
だから、とっても乱暴な言葉を使うなら
「分かる」は「他者理解の放棄」だと思ってる。
その気がなかったとしても。
(地獄のミサワ)
じゃあ、「分からない」のか、っていう。
「究極他人のことなんてよく分からない」
というのが人生26年目の途中経過報告。
変わるかもしれないけど変わらない気はしてる。
ただ
「分からない」と「分かろうとしない」は別。
自分は経験したことないから「分からない」なんて泣き喚いていたあの頃の私は、結局経験がないことに甘んじて思考停止していただけだと今は思う。
だから「分からない」も、個人的にはアウト。
(こじらせ)
(地獄のミサワ)
で、本題。(2571字目)
あるウェブマガジンの記事がシェアされていた。
その記事は障害者の人が書いた本の紹介で、「障害者だからという甘えは~」的なことが障害者当事者の目線から書かれている本なんだろうと伝わってきた。
そのシェアにコメントがついていた。
障害者ではないけど、それなりに「生きづらい」雰囲気の状況にある方なんだろうと思う。
この記事を読んで、すごく「嫌な気持ち」になったんだろうなって伝わってきた。
障害といってもいろんなものがあり、それを一括りにした上で当事者たちに「甘え」という言葉を突きつけることに対して物申されていた。
身体ではなく精神の方の障害では、見た目には出ていなくても苦しくて体が動かない人もいて、その方がたぶんそのような感じで。「理解されない」と書かれていて。
長文で、訴えかけるコメントで。
もやもやした。(深夜2時)
どうしてもぐるぐるして、その心境を言葉にして残しておきたくて、ベッドの上でTwitterを開いて溢れるままに言葉を並べてみた。
「こっちの気持ちなんて分かるわけないくせに」と言われたらそれ以上どうしていいのか分からない。
— 真崎 @沖縄🌴 (@masaki_desuyo_) 2015年5月25日
どうしていいのか分からないからとりあえず引いておこうと思ったら、いやいやちょっと待って、牽制したわりには「私のこと分かってよ」を思いっきり醸しているではないの。
可哀想と思ってほしい人に、どう関わっていいのか分からない。
— 真崎 @沖縄🌴 (@masaki_desuyo_) 2015年5月25日
あ。これは私が当事者の話ではなく、あるwebマガジン記事についたコメントを見て思ったことです。←卑怯
あちらがどれだけ辛くて苦しくてどうしようもないのか分からない。「こんなに辛くて苦しくてどうしようもない」というメッセージを受け取ってみるしかない。
— 真崎 @沖縄🌴 (@masaki_desuyo_) 2015年5月25日
その境遇を盾にされると困ってしまう。正直「免罪符」みたいに見えてしまうが、それを言おうものならたぶん相手は怒り狂いそうだ。
自分を「可哀想」とアピールしてくる人に対して、ここ1年間くらいで随分私の気持ちがドライになった気がする。
— 真崎 @沖縄🌴 (@masaki_desuyo_) 2015年5月25日
それでも「分かりたい」「関わりたくない」の狭間で揺れている感覚があって、自分でもまだこの気持ちを上手く掴めていない。
粘膜の重要性
— 真崎 @沖縄🌴 (@masaki_desuyo_) 2015年5月27日
※最後のTweetの真意が思い出せない
最初に書いた「分かる」「分からない」のエピソードを久々に思い出したのは、この一連の出来事があったから。
私は、障害者でもなければうつ病患者でもない。分かりやすい「生きづらさ」は抱えておらず、当事者の気持ちを「分かる」ができない。だからこそ「分かろうとする」という努力はしたいと思っている。
しかし、以前の仕事でもよく言われた。
様々な生きづらさの当事者さんに。
「分からないくせに」
(´・ω・`)ショボン
てなる。
「分からないくせに」と言われたら、上手く言い返す言葉が出てこない。言葉が出てこないというよりは、「分かる」ためのコミュニケーションを取り続けることを猛烈に諦めたくなる。
率直に言えば「なんやねん(おこ)」という感じ。
それで「もう知らん(おこ)」となる感じ。
でも、背中を向けようとすると感じる。
「分からないくせに」
という言葉の後ろに
「分かってよ私のこと!!!!」
という猛烈な叫び。
「なんやねん(なき)」てなる。
元々そういうことに気付いたらなんとか寄り添おうと思っていた1~2年前から比べると、随分自分がドライというか冷たい人間になった感覚がある。でもだってしかしだよ。
「私を見て私に構って私を認めて私を可哀想だと思って私に頑張ってるねって言って私を愛して愛して愛して」
幾度となく感じてきた、他者から私に対する猛烈な承認欲求と依存の気配。受け止めようとして受け止めきれなくて、相手が嫌になってそんな自分も嫌になって。
そんなことを繰り返しているうちに「こんな共依存関係アホみたい」とこころが冷めて、相手に対して「関わりたくない」という気持ちを持つようになった。
そんなことを、コメントを見ながら思い出していた。「分かってよ」の人を「分かろうとする」ときの心のおもり。
でも、自分の中に感じる
「分かりたい」という気持ちの残り。
だから、自分のこころが絶賛八方美人。
「分かってよ」の叫びを前に、「分かりたい」と「関わりたくない」がゆらゆら揺れ動いている感じ。
自分でもうまく整理できていない。
どう向き合っていくべきなのか。
個人的に「人のために感全開」でやってきた教育系の仕事を辞めて「自分のために自分の好きなことやろう」と決めて2か月。
気付けば今また「生きづらい系」の世界に飛び込もうとしてる。
「分かってよ」を全力で受け止めようとする優しさが干からびてしまった私。
大丈夫なんだろうか。揺
真崎
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