「そのときね、すごく落ち込んでたの」
セブのビーチ。夕暮れ時。
ビーチチェアに寝そべってバナナシェイクを飲む。
隣には、先日会ったばかりの脚本家の女性。ふたりでたわいもない恋バナをしていたら、彼女がふと”一番大好きだった男”の話をしてくれた。
「人の裏切りみたいなことがあってね、もう立ち直れないくらいすごくショックで。そのとき、彼に電話をしたのね。
それで彼が電話に出てくれた瞬間、わたしいきなりすごく泣いちゃって。なにも話せずにずっと号泣してて、彼は何も言わずに電話を繋いでいてくれて。
しばらくしてからやっと言葉を発したんだけど、泣いてる理由もなにも説明せずに、わたしひと言だけ、『生きていくってこんなに大変なんだね』って言ったの。普通に考えたら意味分かんないよね。
そう、意味分かんないじゃん。
だから普通ならさ、たぶん『どうしたの? 何があったの?』って聞くと思うの。
でも、その彼はなにも聞かないの。
『うん、生きてくって大変だよね。俺も最近知ったわ』って言ったの。
ああ、もうこれ。
この言葉、100点満点だって思った」
「親父が倒れた。すぐ戻ってきてほしい」
京都にいる兄から連絡がきたとき、わたしは福岡にいた。
大学5年生。卒業を間近に控えた2月。
公立校で学習支援を行うNPOに所属して1年半プロジェクトを回し続けてきたわたしは、「最後は授業サポート側じゃなくて、授業をする講師として生徒に直接関わりたい」と思って福岡にやってきた。
5日間の短期学習支援プログラム。4日目の指導を終えていよいよ次が最後の授業。どんな授業をしようか。どんな成果を彼らに残すか。
そんなことを考えながら教材づくりを進めていた、夜明け前の午前4時頃だった。
兄からのメールを見たわたしはパニックになった。
お父さんが倒れた?運ばれた?入院?なんで?突然?今までそんな様子なかったのに?え?うそ?ヤバかったの?前から様子おかしかったの?私だけ気付いてなかったの?脳出血?失言?ねえそれヤバくない?え?死ぬの?お父さん死ぬの?
ヒャッ、という音が口から出る。
しゃくり上げるような嗚咽が止まらない。携帯を見ながらヒャッヒャッと繰り返すわたしの異変に、部屋でいっしょに作業していた講師仲間の女の子が気付いた。
彼女がわたしを抱きしめて「大丈夫、大丈夫、ゆっくり息しよう」と言っている。彼女の深呼吸に合わせて、わたしもゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。
しばらくするとパニックは収まった。少し落ち着いたところで、兄にメールをして詳しい事情を聞いた。
「発語と右半身にマヒが出ているけど、死ぬとかじゃないから大丈夫。今すぐムリならいいけど、できるだけ早く帰ってきてな」
兄の言葉を見て、ほんの少し安心した。
そして、この後どうするべきか冷静に考えた。
少し考えて、わたしは彼のいる別室に行った。
**********
ドアを開けると、部屋は暗かった。
テーブルには作りかけの教材。ベッドには彼。ゴロリと寝そべり、かすかに寝息を立てている。
「なあ」「……ん」
かまわず起こした。反応があったから続けた。
「お父さんが倒れたらしい」
「………マジで?」
寝ぼけたような声で彼が答える。話が通じているのか分からない。それでもかまわず続けた。
「最後の授業はする。終わったらすぐ帰ると思う」
「……そうか」
そんな短い会話を終えて、部屋を出た。
彼と初めて会ったのは、前年の夏。
わたしがプロジェクト責任者を務めた夏季プログラムに、彼はアフロでやってきた。
唖然とするわたしたちスタッフを前に、彼はボソボソと低い声で「コミュ障が自分のイシューで、この課題を解決するために髪をアフロにしました」みたいなことを言った。意味が分からなかった。
わたしよりも圧倒的に頭がよく、とても良い意味で意識も高く、体型はスラリと細長く、アフロという奇抜な見た目に頼らないカリスマ性もある。
その存在はわたしの目に恐怖として映った。
「責任者のコイツは自分より低能だ」と参加者に思われたら事業は上手く回らない。そんな勝手なプレッシャーから研修やプロジェクトにも必要以上に気張って臨んだ。
彼は、とても優秀だった。
そして、不器用で一生懸命なやつだった。
ヤンチャな生徒たちに翻弄されて授業も最初は上手くいかず、毎日悩みうなりながら指導を考えていた。生徒たちとたくさん話をして、自分なりに相手を理解しようとしていた。生徒も彼のことが好きなんだと目に見えて伝わった。
2度のプロジェクトを共にして、わたしは彼を信頼した。
彼は彼で、わたしを信頼した。
「福岡のプログラム参加するから一緒にやろう」
そう言うと、彼はマジかよと苦笑いした。その後日「そういえば福岡のやつエントリーシート出したで」と言ってきた。
驚いた。嬉しかった。
*********
夜が明けた。
わたしは引き続き教材をつくっていた。その部屋に彼が入ってきた。お互い黙々と作業を進める。
”親父が倒れた”
必死に消していた不安、恐怖、親不孝な自分に対する罪悪感が、突然また溢れ出す。こころがキリキリ痛んで、目の奥がジーンとする。
彼の作業をジャマできない。でもこの不安を抱えたままひとりにもなりたくない。涙と嗚咽を堪えながら、部屋の大きな窓を開けてベランダに出た。
カーテンは閉めているからわたしの姿は中から見えない。シルエットも映らないベランダの端っこに膝を抱えて座り、また泣いた。ヒックヒックと情けないくらいに泣いた。
気付けば、ベランダに彼がいた。
彼は、なにも言わない。少しだけ距離をあけた場所に座って、黙ってタバコを吸っている。
なんとなく「ごめん」と言った。
彼はたぶん「おう」だか「いいよ」と言った。
そして、私はまた泣いた。ヒックヒックと泣いた。
彼は黙って煙草を吸いつづけた。
時間にすれば数分のことだったと思う。
何本目かのタバコを吸い終えた彼は、何も言わずにガラガラと窓を開けてベランダから出て行った。
わたしはわたしで「いやいつまでコレやるん」と自分に呆れる冷静さを取り戻し、少し時間をあけて部屋に戻った。
部屋の中には、わたしと彼のふたり。
もう甘えている場合じゃないと、気を引き締めて教材づくりを再開した。
♪~
突然、彼のPCから聴き慣れたイントロが流れた。
この歌は。
♪~
これ以上なにを失えば 心は許されるの
どれ程の痛みならば もう一度君に会える
One more time 季節ようつろわないで
One more chance ふざけ合った時間よ
たまらず吹いた。
「なんで山崎まさよしやねん」
思わずツッコむ。
「いや、やっぱりこういう時はこの歌かなと」
低い声でボソボソと彼が言う。やっぱり意味が分からない。
泣きはらした目で、わたしは笑った。
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「この言葉、100点満点だと思った」
彼女の言葉を聞いて思い出すのは、この福岡の朝。
タバコも山崎まさよしも、わたしの100点満点だった。