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真崎ですよ

ライターの真崎です。2016年6月より池袋→沖縄に移住しました。

大学時代の友人が「自閉症当事者」としてのブログ発信を始めたらしく

記事紹介

 

  

 

大学時代の友人から「やほ!ブログを書いたよ」と突如メールが届いた。随分久しぶりに見る名前。

 

連絡を取り合うことはなかったけど私の発信を見ていてくれたらしく、メッセージには「感化されてしもーたわーw」と書いてくれていた。嬉しい。

 

 

そして添付されたURLを開いて目に飛び込んできたのは、凄まじく予想外のブログタイトル。

 

『労働力としての自閉症スペクトラム

 

 

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彼女は、とても可愛い見た目でバリバリの方言がこれまたチャーミングな女の子。SNSでの発信等を見ている限り、頭も良くて言語化能力が高くてちょっとばかりひねくれている。そして笑顔でナチュラルにゲスい。好きなタイプ。

 

同じキャリア系のセミナーを受けたご縁で知り合った。めちゃくちゃ仲が良いというわけでもなく、学生時代に何度か一緒にご飯食べたり、社会人になって特に連絡取らずにいたと思ったら堀江貴文監修の「焼肉部」という肉×出会いの場に「真崎と行きたい!!」と突如連絡をくれて一緒に登録したり。かと思えば登録直後に転勤で一度も参加せずに終わったり。未だに焼肉部から毎日メール届くんだけどどうしたらいいかな。

 

私が安易に書けることではないけど、彼女の過去の体験を聞いて「壮絶すぎるわ」と思った記憶がある。本人がどの話をする時もあまりに笑顔なのでこちらの方がドギマギするほどに。

 

そんな彼女はにこにこと大手企業に就職し、それから一度も会うことはなかったけれどTwitterなどを見ている限り、それなりに楽しくゲスく頑張っているように感じていた。

 

 

で、いま。

 

その彼女がブログを始めたかと思えば、自身が自閉症スペクトラム注意欠陥多動性障害を持っていること、その上でどのように社会に溶け込んでいるのかをモニタリングしていきたいことを書いていて、まあ驚いた。彼女が自閉症だったこと、そして自閉症支援系の組織へ今週取材に行かせてもらうことが決まっていて「なんてタイムリー」と思ったことに対して。

 

 

ちなみに、文部科学省で定義されている「自閉症の定義」は以下の通り。

 

自閉症とは、3歳位までに現れ

①他人との社会的関係の形成の困難さ

②言葉の発達の遅れ

③興味や関心が狭く特定のものにこだわる

ということを特徴とする行動の障害であり、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定されている。

 

 

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「「発達障害系」と「精神科・精神薬」の内容は炎上しやすいから、書く時は気を付けた方がいい」

 

2社で不登校支援の仕事をしていた時に、一度上司からこのようなアドバイスをもらった。

 

その前日に私が「子どもが不登校になった時に精神科に連れて行って精神薬を処方してもらうのは解決策として有効なのか」という旨の文章を感情的に書き散らかした記事を発信し、コメント欄が賛否両論意見で激しく炎上して凹んでいた時である。

 

そのブログの主な読者が「不登校生」「不登校経験者」「不登校生の保護者」「不登校支援者」であること、それぞれに状況や取っている立場があること、その中でも「発達障害」と「精神科・精神薬」の話は賛否がはっきりしていることが、考えられる炎上の要因。

そしてただでさえ勘違いされやすい文字の世界では、対面の10倍くらい読み手に対する気配りをした方が良いことを告げられた。「どうしていいか分からず縋る想いで精神科に行ったり精神薬を飲んでいたりする人がこれを読んだらどう思う?」と。

 

 

以来、その2つのネタを記事に取り上げることはしていなかったのだけど、今回彼女が開始したブログを見て、改めて自分の中に「書きたい衝動」が沸き上がった。

 

 

 

そう。そんな感じ。(面倒くさがり)

 

発達障害の中でもことADHDに関しては、あまりにも管理が出来なくて整理整頓が苦手でマルチタスクで頭が爆発する私もその疑いをかけられたことがあり、その際「あなたは病気だと思う」と言われたことがとても悲しかった記憶がある。

 

その指摘をされた際に反抗心全開の態度で「私に"病気"の疑いあるんなら、病院行って薬もらってそれ飲み続けてなんか効果とか妙な変化あるんか試して発信したら役に立つんじゃないっすかね」と言ったらそれは怒られた。いや確かにあまりにも不謹慎だった(反省)。

 

 

不登校」という分野に関わった際、確かに不登校の子たちが抱えていた表面的な困難に「勉強についていけない」「周りと上手くコミュニケーションが取れない」「教室の環境に適応できない」などがあった。

 

しかし、それらに対して「こんな"症状"があるということは、この子は発達障害なのでは」とすぐに疑ったりジャッジにかかる周りの大人の姿に激しく違和感があった。

 

整理整頓ができなくて勉強もなにから手を付けていいか分からずパニックになって投げ出してしまう、そんな子が「軽度ADHDの疑いがあるので」と診断されて処方された薬を飲んでいるという状況を前にした時「それは薬で解決できる、というか解決すべきことなのか」と、すごい怒りで胸が痛くなった記憶がある。なんやねん、"軽度ADHD"て、みたいなところにも。

 

そんな経験の積み重ねから、私自身がきちんと事実を見る前に、感情的に「発達障害」を疑うようになっていた。いやいやそれちゃうやろと。なんでも発達障害でまとめてるんちゃいますかと。

 

 

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そんな自分自身が、わりと危うい「偏見の世界」に行きそうになっていると感じるようになったのは、ここ数か月のことだと思う。

 

偏見、なのか分からないけど、子どもに対して安易に「発達障害のラベル」を貼り付ける人達を否定するのに必死だった気がする。「いやいやこの子は別に発達障害ちゃいますて」「そもそも発達障害って言葉がもう一種のムーブメントみたいになってますやんか」と言いたくて仕方なかった。

 

更に感情論を重ねると、自分が関わっていた子で「自閉症」の診断を受けていた子がいたのだけど、私にはどうしてもその子が「自閉症」だとは感じなかった。「自閉症」が良い悪いという話ではなく、「自閉傾向」という診断にただただ違和感があった。

 

そんな経験もあり、且つ自身が「病気だ」と言われて、なんだろ、なにかを貼り付けられた感覚があってすごく嫌だったという経験もあり、自分の意識は「相手に対して「発達障害」というラベルをむやみに貼り付けているような気がする周りの方々への反発心」に集中してしまっていた気がする。

 

 

 

自分自身が「発達障害」という言葉に捉われていたのかもしれない。

 

肝心の当事者の人たちは、発達障害…によるものなのかは置いておいて、やっぱり「生きづらさ」を実際に感じていたりするらしい。読まなきゃ分からなかった。

 

 

 

私が「そうじゃない」と否定する行為は、その当事者の人たちをきちんと見ていない。私がするべきことは発達障害なんて周りが勝手に貼り付けたレッテルだ!!」と叫ぶことではないのだと最近猛省いている。

 

 

その人たちがどんな困難を抱えているのか。

そこに対して自分ができることはあるのか。

あるとすればどんなことか。

 

勉強したり、当事者の人たちの声を聴いたりして、もっと冷静に向き合っていくことや、感情的ではなく事実ベースの正しい情報発信が必要なんだと思う。私は「その人」の声を聴きたい。なにができるのか、そもそもなにかすべきなのかを再考するためにも。

 

 

と、いうことを思っていたタイミングで

 

   

これ。非常にありがたい。

今後の更新を楽しみにしております。

 

 

真崎 

 

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