真崎です

沖縄にいます

人を神様にするとしんどい3つの理由

 

 

クククク…

 

俺の見てきたやつら

みんなそうだった

 

 

酒だったり

女だったり

神様だったりする

 

 

一族

王様

子ども

 

 

みんななにかに酔っ払ってねぇと

やってらんなかったんだな

 

 

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進撃の巨人』17巻

ケニーが遺した最後の言葉。

ここ2~3巻での人類&調査兵団の進撃具合が素晴らしい感じです。

 

 

 

 

『人を神様にするとしんどい』

 

という記事を書こうと思っています。

 

 

さらに大切な前提として、ここでいう「神様」とは「聖書において人々の信仰対象となっている存在」ではなくて「絶対的に正しい(けど本来絶対者ではない)存在」という認識でお願いしたいです。

 

聖書の神様は「絶対者」であり絶対に正しい存在とされています。「絶対的に」ではなく「絶対」であることが、今回の記事タイトルの神様との違いです。

 

 

「小さい子にとっての親御さん」

みたいな感じです。

 

私にとって特に母は畏怖の対象でした。母の言うことは絶対正しいと思っていて、母に認められることが私にとってはとてもとても大切なことでした。この「絶対正しい」「この人に認められることが全て」の対象となる人をここでは「神様」と置くことします。

 

 

恋人

教師

上司

経営者

権威者

トップ営業マン

人事

著名人

歌手

カウンセラー

自分らしく生きている人

 

 

今まで見てきた「神様」の例です。

誰かが誰かを「神様」としていた例です。

 

 

かくなる私自身はどうかというと、「親」という存在はちょっと特別すぎるので例外として、人生の中で少なくとも2人の人を「神様」にしていました。神様が神様であったタイミングは別々です。

 

で、いつかのなにかの記事にも書いた記憶があるのですが、そうやって人を神様にしたことで得た唯一の教訓が『人を神格化しない』でした。その理由は「人を神様にするとしんどいから」です。

 

 

ネット上で誰かが誰かを神格化する様子をとても複雑な気持ちで眺めながら、「じゃあなんで人を神様にするとしんどいんだろう」と改めて考えてみることにしました。

 

 

そしたら、3つ理由が出てきました。

 

あくまで私の経験に基づくものですが、以下です。

 

 

1. 「自分の言葉」を話せなくなる

2.  正誤善悪の基準が「神様」になる

3. 「神様」が「神様」でなくなった瞬間に畏怖尊敬の念が憎しみに変わる

 

 

 

私の事例を使って、1つずつ説明してみます。

 

 

 

 

1. 「自分の言葉」を話せなくなる

 

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「神様」がいたときの自分が書いた文章は、今読み返すと吐き気がして読めないです。

 

 

ひとりの「神様」は、自分の意にそぐわない他者に対して非常に否定的且つ攻撃的な方でした。その「こういう奴はおかしい」「この組織のやり方はまったく本質的ではない」そんな否定的且つ攻撃的なアウトプットを見ていました。

 

「そんなに言う?」

こころのどこかで少し思っていました。

 

でも、そんな疑問を持つことよりずっと大切なことは「「神様」に認められること」でした。

 

 

 

私がしたことは

批判的且つ攻撃的な文章を書くことでした。

 

 

その人と普段話したりその人が紡ぐ言葉を読んだりすることで、その人が持つ信条は大体つかむことができました。だから私は、その人の思想に合う、その人が共感して喜んでくれそうな言葉をその時期にたくさんたくさん紡ぎました。

 

熱い教育への想いから、「神様」の思想にそぐわない考え方や他者の批判まで、たくさんたくさん書きました。

 

 

「神様」は、私がそういうアウトプットをすることで私を肯定する言葉をくれました。この考え方ができるなんてさすが真崎だと言ってくれました。とても嬉しかったです。

 

そんなことを繰り返すうちに、あの頃の自分は「自分の言葉」を話せなくなっていました。私が本当に素直に感じていることを上手く外に出せなくなっていました。あの頃の話をすると「あの時の真崎の文章ちょっと変だったよ」と言う人もいます。

 

あの時の自分は気付いていなかったと思います。

でも、当時の文章を今読むと、それは「自分の言葉」ではなく「自分の言葉と見せかけた(「神様」に認められるために「神様」の思想をなぞった)他人の言葉」な感じがとてもします。

 

とても感覚的な話ですが、前者の文章の場合、内容はいびつでもネガティブでもポジティブでも一応「自分の言葉」なので、読んでいて恥ずかしくなるけど吐き気はしません。

 

後者は、やっぱり気色悪いです。

 

 

 

ちょっとややこしい話になりますが、誰かの意見に対してこころから共感あるいは同じ意見を持っている場合のアウトプットは、今回のソレとは異なります。

 

一見すると、どちらも同じ内容かもしれないです。

 

 

が、もうこれは感覚的に

 

「自分の言葉」かそれでないかは、読むと分かる気がします。

 

 

 

 

2. 正誤善悪の基準が「神様」になる

  

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これは、最悪「死」に繋がると思っているので個人的にもわりと怖いやつです。

 

 

善悪の判断は先ほどの項目とも少し通ずるところがあるので、この項目では特に「正誤」にフォーカスを当ててみます。

 

 

「神様」は絶対的に正しいわけなので

「神様」の言うことは正しくなるわけです。

 

 

だから、仮に「神様」が自分を否定する言葉を吐いた場合、その言葉は正しいので、結果的に自分まで自分を否定しなくてはいけなくなります。

 

 

 

存在否定をされたことはないですが、アイデンティティを否定されることがとても多かった時期はありました。スキル的な面ではなく人格や思想面です。

 

私が必要以上にネガティブな受け取り方をしていた可能性はありますが、要約すれば「私という人間のこうこうこうこうこうこうこうこうこういう考え方やそもそものスタンスが人として駄目で、こうこうこうこうこうこうこうこうこういうところを直さないとこれから誰からも信頼も協力もされなくなるし傲慢で滑稽な生き方になる」的な言葉を「神様」はくれました。

 

 

「神様」は、「すごい人」でした。

 

信頼も尊敬も協力も周りからたくさん得ていました。

力も持っていました。

 

そんな「神様」の言うことなのだから

私にとってすべては「神様の言うとおり」でした。

 

自分の人格やスタンスを変える努力をしなければ、私は「駄目な人間」のままなんだと思っていました。

 

「駄目な人間」だから、変わらないと生きていけない奴なんだと思い、自分は最悪な奴なんだと思い、自分を変える努力をしなくてはいけないんだと、強く思っては涙が止まらなくなる、みたいな日々を過ごしていた時期がありました。

 

 

 

結局、相も変わらず傲慢かもしれないですが

 

今は「なんでそれが全部正しいと思っていたんだろう」というふうに思うようになりました。

 

 

反抗とかではなくて、「その人が言うのだから正しい」という思考フローに違和感を持つようになった感じです。

 

 

「人が神様になると、たぶん信者は思考停止する」

 

そんな仮説が、自分の中に生まれました。

 

 

 

「神様」がいる環境においては、おそらくその「正しさ」に従うことはとても大切で、その通りに自分を変える努力が必要だったんだろうなと思っています。

 

だけど、もっと広い視野で見た時に、私が生きていく上で、人が生きていく上で、それが本当に絶対「正しい」のか、ということ。

 

 

それは、切り分けて考える必要性を感じました。

 

というか「ちゃんと自分の頭で考えてみる」必要性を感じていました。

 

 

 

別に思考停止が悪いということではなく、ただただ「とても危険なこと」だと思っています。

 

「神様に「あなた生きている価値ないよ」的なこと言われたから私生きている価値ない」となんの疑いもなく思ってしまう、その構図を見たことがあり、似たような状態に私も陥りかけたことがあります。

 

誰しもその人自身の「正しさ」や「信条」を持っていると思っています。その価値観自体には本来「正しい」「間違っている」というものはないというのが私の持論ですが、相手が「神様」になるとそれが無条件で「正しい」になるので怖いという話です。

 

 

 

3. 「神様」が「神様」でなくなった瞬間畏怖尊敬の念が憎しみに変わる

 

 

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これは、人によってパターンがいろいろかもです。

 

新興宗教系の物語を見ると、例えば、「教祖」的な人が信者を騙してお金取ってて警察に捕まったとか、なんかこう「化けの皮」が剥がれる瞬間的なシーンがあったりします。

 

その時の信者の反応、という感じです。

 

ある物語に描かれる信者たちは

 

絶望したり

無気力になったり

気が変になったり

それでも信じ続けたり

 

 

 

私の場合は、相手が憎くなりました。

 

 

言ってることとやってること違うやん

「責任持って真崎を守る」って言ってたやん

めっちゃ無責任やん

責任放棄やん

嘘やん

全然「正しくない」やん

 

 

「神様」だから、崇高な想いがあって、私や人のことを変わらず大切にしてくれて、正しくて、立派で、だからついていこうと思ったのに、全然違うやん。

 

 

 

あくまで私の考えですが

あえて言い切りの形にすると

 

 

 

「神様」じゃなくて「人」だから

 

たぶん、いろいろ、変わります。

 

 

 

ブレたりします。

逃げたりします。

言ってること変わったりします。

投げやりになったりもします。

好きを嫌いになったりもします。

やるがやらないになったりもします。

今生きてるけど死にます。

 

 

「神様」は、聖書的に言えばですが(解釈間違ってたらごめんなさい)、絶対に変わらない愛を万人に注いでくれる存在であり、すべて正しくブレない存在であり、永遠にいなくならない存在です。

 

 

その時点で

本来「人」は絶対「神様」にはなれないはずです。

 

 

なのに、勝手に「人」を「神様」にして、その人が変わることに怒り憎しみを覚えるというのは、なんというかとても滑稽だったなと、あの頃の自分を思い返して思います。不毛です。

 

 

「人を憎むこと」は、めちゃくちゃエネルギーいります。

 

その人を恨んで、その人のいろんなことが上手くいかなくなるよう願っていたと思います。あの時たぶん同時に自分自身のこころをゴリゴリ傷つけていたと感じています。

 

 

不毛です。

おすすめしないです。

 

 

 

  

そんな感じで

「人を神様にするとしんどい」

と感じています。

 

 

逆に言えば、誰も神様じゃないから「絶対正しい人」とかいないです。

 

 

そう思ったら、ちょっと生きやすいとか

 

なんか、そういうのあったらいいなって思っています。

 

 

 

真崎

 

 

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